カステラ〜日本伝来の歴史〜    

大航海時代の只中にあたる十六世紀、ポルトガル人やスペイン人はアジアへと近づいてきました。船乗りが、商人が、宣教師たちが、ポルトガルのリスボン港から船出し、種子島に漂着したのです。

西洋との初めての出合いのその頃、日本人にとって、南蛮人たるポルトガル人の顔貌への驚きもさることながら、かれらが携えていた数々の文物に不可思議の思いを抱きました。

そこでカステラの登場です。来航したポルトガル船から、かのフランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師や、あまたの商人たちが長崎に上陸。宣教師たちは下戸には甘きお菓子を、上戸には葡萄酒を与えて布教し、一方、商人たちは長崎の街中に住んで日本人と親しく交歓したのです。

その頃カステラは、ポルトガルではパン・デ・ロー、スペインではビスコチョと呼ばれていました。イべリア半島を二つに分ける両国は、イスラム教徒からの国土の回復などもあり、いわば一つの文化圏といえます。卵、砂糖、小麦粉の三つを材料にした素朴なお菓子が、名前こそ違ってもこのイべリア半島のあちらこちらでさまざまにつくられたのです。

 ではなぜ、伝来した後にカステラと呼ばれるようになったのか。スペインのもとになった王国のひとつで、十六世紀頃カスティーリャ王国という国があります。カステラと呼ばれるお菓子は、その語源は「カスティーリャ」に由来するという説がいまではおおよその見方です。ポルトガル人は、「カスティーリャ」を「カステラ」と発音します。

元亀二年、開港とともに賑わいはじめた長崎の人々の間では卵と砂糖を使うこの南蛮渡りの、かつて経験したことのない風味が珍重されました。

ここに東と西の文化の出合いのひとつ、カステラが生まれていきます。

西洋からの新しい刺激を眼のあたりにしてそれを享受し、永い時の積み重ねのうちに日本人に合うように変容させ、繊細微妙に仕立て上げていく創意と工夫。遥か彼方、イベリア半島からの贈り物は、長崎という窓を得て「長崎カステラ」となり、永い時を経て和菓子に成熟していったのです。